由緒・歴史

桐生天満宮の御祭神・菅原道真公は、平安時代の優れた学者・文化人・政治家で、一般に「天神さま」と称されて、広く崇敬されてまいりました。


▲神門・拝殿・水舎・太鼓橋
当宮の起源は、第十二代の景行天皇の時代に、上毛野国造が天穂日命を奉斎した磯部明神であり、その後幾多の星霜を経て、文治三 (一、一八七)年から当地を支配した桐生家が代々の守護神として崇敬し、観応年間(一、三五〇年頃)には、京都より北野天満宮の御分霊を合祀して「桐生天満宮」と改称し、桐生領五十四ケ村の総鎮守と定められました。

天正九(一、五八一)年に徳川家康公が東征の折りには、徳川家代々の祈願所として朱印地を賜わり、
天正十九(一、五九一)年には、桐生新町の宿頭として整備され、境内地や社殿は壮大なものとなりました。
慶長五(一、六〇〇)年の関ケ原合戦には、軍旗に用いる旗絹を当宮の御神前に供えて戦勝祈願し、その勝利凱旋を吉例として境内には織物市が開設され、後の桐生織物繁栄の礎となりました。

群馬県指定重要文化財 「天満宮社殿」

社殿は安永七(一、七七八)年に起工して寛政五(一、七九三)年に落成したもので、
「岩の上の天神」と称されるように、本殿・幣殿は岩の上に建ち、社殿すべてが当時の建築装飾技術の粋を集めた建造物として、群馬県指定の重要文化財となっております。

一、名称及び員数

群馬県指定重要文化財
天満宮社殿(本殿・幣殿・拝殿)   三棟
附 本社幣殿拝殿妻之図      一幅
棟札               四枚

二、指定年月日
平成二年九月二十五日

三、所在地
群馬県桐生市天神町一丁目二一八番地の一

四、文化財の概要
天満宮社殿

天満宮は、桐生新町の宿頭として、天正十九年(一五九一年)、下久方村宮内から現在地に遷座したといわれ、桐生領五十四ヵ村の総鎮守格であった。

棟札によれば、現本殿及び幣殿は、安永七年(一七七八年)に起工して、寛政元年(一七八九年)に上棟、寛政四年(一七九二年)には寺社奉行への披露を経て、翌、寛政五年(一七九三年)に遷宮開帳をおこなった。
拝殿は、享和二年(一八〇二)に棟札をあげた。

社殿は、県内の江戸時代の神社建築に多くみられる本殿が幣殿及び拝殿につながるいわゆる権現造りの形式である。
本殿・幣殿の外壁には極彩色の精巧かつ華麗な彫刻が施されており、内部にも同様な彫刻とともに壁画も描かれている。
このように天満宮社殿は、北関東の近世神社建築の特徴をよく示した優れた文化財である。
附たり指定の本社幣殿拝殿の図は、極彩色の社殿の側面図であるが、現在の社殿とは構造・彫刻ともに若干異なった部分がある。
特に拝殿にも精巧な彫刻装飾が描かれており、計画図と考えられ、当初の造営計画を知る上で貴重である上に、今後の保存修理にも参考になるものである。
また、棟札は、社殿の造営と修理の経過を物語っている。

桐生市指定重要文化財 「末社春日社」

所在 桐生市天神町一丁目二一八番地の一
指定年月日 平成三年十一月八日

天満宮は、天正十九年(一五九一)に、久方村梅原から赤城の森(現在地)へ遷され、荒戸新町(のちの桐生新町)の起点となった神社であり、旧桐生領五十四箇村の総鎮守格であった。
末社春日社は、本殿の後方に南面して建つもので、一間社流造りの小規模な社殿である。
社殿は、身舎、庇の軒桁や垂木に見られる反り増しをはじめ、要所に用いられている彫刻の装飾に、室町時代後期の建物の特徴をよく残している。一部に菊と唐草・流れに紅葉などの文様が描かれてあり、各部には彩色が施されていた痕跡が見られるが、ほとんどは不明である。
県内における類似する建物としては、板倉町の雷電社末社稲荷社社殿があり、象鼻彫刻が発生した早期の建築と考えられる。
このことから、建築年代は天正(一五七三)から慶長(一六一五)年間と推定され、現存する桐生市内の建造物としては、最古のものであるとともに、当地方における古建築の遺例として貴重である。

平成五年十一月一日 桐生市教育委員会

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